2007年09月の記事一覧


■「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」

2007-09-22

2004年にロケシンブンのダイジェスト版を発行したいとなって冊子を作った。あいさつ文を入れようと思ったが、悩んでいた。あんどある出来事でも悩んでいたときに、サポーター会員であるしもさんが「知らないより、勉強している方がいい、勉強しているより好きな方がいい、好きより楽しいがいい」と慰めてもらった。その言葉を(タイトル)ヒントに書いたあいさつ文。当時「人類皆兄弟」(笹川会長か!)が口癖だったなーと今振り返りに転載っす。

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「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」
〜 知っているというのは好むのには及ばない。好むというのは楽しむのには及ばない。 〜
『論語 巻第三 雍也第六』

2004年7月3日
フィルム微助人理事長 金子恭子

  2001年秋九月、父の命日に始動させたのが、『めざせ!沼津フィルムコミッション』すなわちやがて我らが『フィルム微助人』の母胎となる、小さなちいさな活動体だった。 だからといって、特別感傷的になっているわけでもない。

この活動を始めて丸3年を迎えようとする今、自分の原点を振り返ってみる。

学生時代の6年間、NGO団体に参加し「遠い世界につうじる問題でも、現場は常に足元にあり、現場は仲間がいれば変えられる。誰かを仲間に迎えたいと心底思った時に、誰かが既に仲間になっている。夢は走りながら考える。楽しめなくちゃ、力にならない。」国際NGOの活動シーンでは、周りには常に「体を張った人たち」がいた。様々な分野でムズカシイ社会問題に取り組み、圧倒的な暴力と向き合っている人達がいた。「命がけ」の人たちを前にして「いったい自分は何ができるのか、何をしたいのか」と自問し続け、無力感に落ち込んだ日々もあった。すべて「生身の」「名前がある」人びとが動かしていること。身近なものと感じてきた。だからこそ、無力な自分が悔しい。一人でリキむ10代。
そんな時、海の向こうの友人が言葉をかけてくれた。「キョーコ。平和も環境保護も、願いは『幸せな街』を作ることでしょ。あなたの取り組むべき現場は、あなたの足元にあるはずよ。」険しい顔した私に優しく微笑んで「笑顔で行こうよ。あなたが楽しめば、仲間ができて、ちからが生まれるはずよ。」目から鱗が落ちた瞬間だった。そこが原点。

もう一つの原点であるふるさと沼津。 「そうだ、やっぱり私は『沼津』が好きなんだ。港が好きだし、魚が好きだし、日帰り温泉が好きだし、狩野川が好きだし、仰ぎ見る愛鷹山越しの富士が好き。大好き」自分ではいかんともしがたい人生の流れの中での帰郷。 ナンダカンダを失い、ポツリと「地元」に佇んできた私が、重大な発見(!)をした。私の大好きなものを多くの人に知ってもらいたい、好きになって欲しい、楽しんでもらえると嬉しい。で、再び原点に立ち返ったのだ。

私は、みんなで楽しくやることができれば、本当のちからを生めると信じている。「人類みな兄弟」。人とひとのつながりによって、自分は生かされているのだという、至極当たり前の信念。そして、それが一人佇んで失意の底にあった自分を救ってくれた、体を動かしながら学んできた考え方。 

「楽しい」ことが、いつも「楽なこと」とは、もちろん限らない。徹夜で議論し締切りに追われて作業に取り組む。ケンカし、衝突することはいくらでもあるけれど、互いに必死で考えをぶつければ、思いもよらぬ解決策が泉の底から湧いてくる。夜も眠れぬトラブルに憔悴した後には、それを乗り越え、今やいとも簡単にその手の問題を冷静に対処できる「成長した自分」を発見できる。小さな驚きと、羞恥、そして、自信。それぞれの能力の限界と可能性が自然と理解でき、互いの人生観・価値観を認めあえる。仲間全体の知恵と実力が膨らんでくる。障壁を乗り越えるべく、仲間と相互に激励しあい、終幕に感動を共有できる素晴らしさは、我らが会に限らず、人生の醍醐味のはず。
その節目節目で、佇んでいた私に、明日への活力と勇気を与えてくれた、原点と原体験。
その流れに、このフィルム微助人がある。

そこには、思いを共有しともに楽しくなることを求めて活動する仲間がいて、それを支えてくれる多くの人がいて、そして住まう人が活き活きすれば輝くであろう、かけがえのないふるさとがある。

私をフィルム微助人に向かわせる、勇気はそこにある。

 この『ダイジェスト版』の発行も「楽しく、みんなで」取りかかった。でも仕上げるのは「楽じゃなかった」。だけど、仲間スタッフ一同、やはりひとつ階段をステップアップしたはず。この発行にお力を貸して下さった皆さま、本会始動以来、さまざまな面でお世話になった皆さま、本当に、心から、ありがとうございます。

我が会は、燃焼系アミノ式ならぬ永久進化系組織。今の姿、形、思いを此処でとりあえずひとまとめ。会は生きている。楽しんでいる。ちからは増強されつつある。

刮目せよ!

怯まず進め我らが友よ、敵の鉄鎖を打ち砕け!ときたもんだ。

■ロケ支援が「世界平和」を目指せるワケ

2007-09-22

>そうか 金子さん 目指すは「世界平和!」だったのね?・・・(笑

のコメントを受けて。この話しはじめると長いよー。どこから書こう。

■ロケ支援の魅力
十代に東京で体験したとき思った。目先のことを考えたら、日本のこと考えるし、すると外国との関係まで考えなくちゃいけないんだと。沼津に戻って商売やらなくちゃならない。目先の商売考えたら、同じく海外まで考えた。うんで、沼津では既存の仲間いないから、自分ができることからはじめようと沼津JCに入った。限界と可能性の両者を感じた。東京では自分より10歳20歳年上の人たちに混ぜてもらって活動していたから、複数分野の世界が一緒くたにあった。沼津JCで事業やらせてもらってわかったことは、福祉、環境といった分野だけでなく、福祉のなかでも細分化されていること。横の組織の繋がりが少ないと。今ある環境でデカイ夢と現実できることと、自身の限界も感じていた10年前。フィルムコミッションの存在を知ったとき、これは横の連携が必要だと思った。フジロックじゃないけれど、目的が異なる団体や人々が連携するときって、何かワクワクするものがあって動かされることだと思っている。

自分の限界のなかには、目的達成のための手法、事業スタイル、組織形態によって、得られる賛同者も得られない。フィルムコミッションは手段であり、撮影支援のプロセスには、自らが生み出せなかったワクワク感をもたらすことができるのでは?と思った。そんなとき、この思いを沼津JCの仲間複数名にぶつけてみた。結果、創設メンバーであるM村氏と共に始動させることになったわけだが、彼は89年公開の映画「フィールド・オブ・ドリームス」のロケ地ツアーの面白さを教えてくれた。ヨン様ブームのような追体験ではなく、主人公と同じ「想い」にかられた人たちがロケ地でユニフォームを着るなどのアメリカらしいツアー内容とともに、自分の人生と重ねられる時を過ごせるのだ。限界とともに、地方を卑下していた自分がいたから、この話は私にもそんな感動体験を生み出せることができるかもしれない。とも思った。

(話それた)
ココまでは、会を立ち上げた動機に記している通りですが、ちょいと話飛躍して

■「さぁ来い、ハリウッド!」
M村氏との共通目標は夢はデカク!だったのかもしれない。今忘れている。(笑)日頃、活動や生活に没頭していると目先のことしか考えられなくなっているのだが、私個人は、当時こんな想いがあった。東京での知人からの活動レポートがときおり寄せられる。彼らは今も何かに一生懸命になっている。あるジャーナリストは、チェルノブイリその後を追って被爆し体に異変が起きていた。父ほどの世代になる彼が身体を壊してまでかられた使命。多かれ少なかれ何かと戦っている。そのギャップに「私は何もできていない」と悩んでいたときがあった。

■フィルム微助人冊子「ダイジェスト版」から引用(出かける時間になっちゃった)
学生時代の6年間、NGO団体に参加し「遠い世界につうじる問題でも、現場は常に足元にあり、現場は仲間がいれば変えられる。誰かを仲間に迎えたいと心底思った時に、誰かが既に仲間になっている。夢は走りながら考える。楽しめなくちゃ、力にならない。」国際NGOの活動シーンでは、周りには常に「体を張った人たち」がいた。様々な分野でムズカシイ社会問題に取り組み、圧倒的な暴力と向き合っている人達がいた。「命がけ」の人たちを前にして「いったい自分は何ができるのか、何をしたいのか」と自問し続け、無力感に落ち込んだ日々もあった。すべて「生身の」「名前がある」人びとが動かしていること。身近なものと感じてきた。だからこそ、無力な自分が悔しい。一人でリキむ10代。
そんな時、海の向こうの友人が言葉をかけてくれた。「キョーコ。平和も環境保護も、願いは『幸せな街』を作ることでしょ。あなたの取り組むべき現場は、あなたの足元にあるはずよ。」険しい顔した私に優しく微笑んで「笑顔で行こうよ。あなたが楽しめば、仲間ができて、ちからが生まれるはずよ。」目から鱗が落ちた瞬間だった。そこが原点。

そんなわけで、世界平和でして。それをかなえさせてくれる、理想とするロケ支援のプロセスについては、後日書きまする。

(仕事の呼び出しで、現実に引き戻される)

■音楽は世界を変えられるか

2007-09-20

「どうしてこの活動(仕事)をはじめたんですか?」 

多くの人は、自身の人生の歴史のなかにきっかけや動機があるんじゃないかと思う。
さっきテレビ朝日「アメトーク」で、「JUN SKY WALKER」がライブをしていた。私も「イカ天」世代で最近もジュンスカCDを探したことがあり再結成を嬉しく思った。当時多くの仲間が「イカ天」に出場しメジャーデビューをしていった。後にも先にも音楽にはまった当時をふりかえり「アトミックカフェ・フェスティバル」をネットで検索。

12歳の時に知りあった東京の友人の母親がバリバリの活動家で、連れて行かれる先々の出来事に興味をもち影響を受けた。84年、大久保青志さんが主宰する「アトミックカフェ・フェスティバル」もその一つで、新宿ロフトで友人と二人、大久保さんに連れられて地下へ降りる階段でおしゃべりをしたことを思い出す。(インディース系のバンドだからレコードはソノシート以外に手に入らず、テープレコーダーでライブを録音し、家で音楽を楽しんでいた。テープを回すと大久保さんとの会話も録音されているのだ)その後主催していたピースボートという団体でのPRのため、(アトミックカフェ)日々谷野音や渋谷公会堂でステージに立ち、自分が発したメッセージ、会場の反応、熱気が、いまだ感覚として残っている。
インディーズと言っても、その数年後にはブルーハーツを代表にほとんどのバンドがメジャーデビューしていったから、テープレコーダーで音を持ち帰るほどの魅力があったわけで、当時幼く、こんなすげー人たち(バンド&運営スタッフも)は何が魅力で「アトミックカフェ」に賛同しているんだろう。と感じ、答えを見つけられないままでいた。

大久保さんはその数年後、政治活動を行い、現在も活躍している。ホームページの存在を知らなかった。「大久保青志と九条の絆で歩む会」で、大久保さんが何を思って活動していたのか、何故魅了された人たちが集まったのか、答えが見えた。

日頃政治家のホームーページやブログを見て思うのは、書いてある内容とご本人のギャップ。プロフィールしかり、そんな強い思いがあったなんて口には出さない(行動にも?)が、熱い思いを秘めていたのねん、なんて思う(皮肉です)。

大久保さんのことはよく存じ上げないが、音楽と反戦・反核をつなげた「アトミックカフェ」に影響を受けた私には、彼が政治を行うのはとても自然。現在も「NGOヴィレッジ」や「フジロック」など他方面でのご活躍があるそうで、さすがだなー!なんて感動している。

私を形成した十代の歴史に大きく影響を与えた「アトミックカフェ・フェスティバル」。東京から実家に帰ってきて、そういう世界からは離れてしまった。地元で何ができるか?国外から国内、県内に目を向けてみた。葛藤しつつも今のスタイルにまずは落ち着く。姿・形は異なれど、「●●を変えたい」と思いを形にした運動体としてのフィルム微助人。当時大久保さんが考えていた事の近くまでこれた気がして嬉しくてならない。

〜 大久保さんと日高正博さん(フジロック、スマッシュ)のお話 〜
「音楽は世界を変えられるか」「結論としては、変えられないと」「ただ、人々の意識を変えることはできる。それによってその人間がどう動くか? その源はロックによって発信できると僕は信じている」 (「LOFT PROJECT」大久保青志インタビューから)

そうだ!そうなんだ。私も申し子です。(笑) 「ロケ支援で世界平和を目指していますからぁ〜」

■こんなスタッフ(正会員)募集 その3

2007-09-08

「実際、こんなことできますっていうスタッフいないよ」と事務局伊藤に言われた。

過去20年振り返ってもそんな人はいないような気がしてきた。9/6 18:00待ち合わせ、台風真っ只中ロイヤルホストにて、新しいスタッフ入会希望者との面談時、更に近い過去を振り返った。こんなことできます!したいです!といったスタッフを数えらた、片手で足りた。

彼女もそうだが、かねてから「ずっと以前から、フィルム微助人さんが立ち上げの頃からホームページ見ていました。今回思い切ってスタッフになろうと思いまして」という方が片手ほどいる。待てよ、5年とか6年とかたっているわけでぇ〜。もっと早くに会いたかったなー。その5年っていう待ち続けた年月は何を考えていたんだろうか。どんな会になるのか見守っていたのか。子育てが落ち着くまでか?いや、みな独身だ。夢中になっている彼と安定期に入ったからか。仕事の安定だろうか。うーん。もっと早く会いたかったよ。まっ!つたないオイラが作ったホームページを歴史を追ってみていてくれた事には感謝なんだけど。

まーそんなわけなんで、臆せず、みなさんヌル目のやる気をもって、ご連絡くださいませ!ホームページリニューアルされますとスタッフ募集のページもグッドな感じでお目見えしますゆえ、ネッネッ。

■エキストラ登録システム やっとこさ再開

2007-09-08

約3500名を超えたエキストラ登録者の管理を行うのは限界に達した。手作業でのメルアド変更、これがおっつかないのだ。これまでは携帯メルアドは不可としていたが、実際には携帯メルアドの登録も多く、入力間違い、メルアド変更によりエラーで戻ってくる数も増えてきた。メールが届かないんですが、といった質問も多い。携帯電話の機種や提供サービスによってエラー内容も異なるので、わからないことも多い。しかもメールでのやりとりは限界がある。届かないんですけどーというメールに、えーい面倒電話しちゃえー!と会の通信費を捻出するのも厳しいという状況なのだ。

時代に応じて、兼ねてより会内外で希望されていた携帯メルアドの登録も考慮して、新しいシステム移行を検討してきた。基本、お金はないので、無料サービスで我々がやりたいことができるサービスを比較するのに時間がかかった。結果、行き着いたのがみなさん御馴染みの「まぐまぐ」なわけだが。

迅速にシステマティックに、しかも安価にエキストラ手配を行うには、ITを駆使しなくてはならない。予算があれば一括で対応できるシステムを導入可能となるだろうが、やりたいことをいくつかにわけて、それぞれ異なるサービスや安価なソフト導入、システム導入をしながら、使い分けるに留まった。いやーでもこんな時代に生まれたからこそできる支援形態だなーと思うよ。ホントに。

ロケ支援やイベント事業を行うかたわら、ホームページリニューアルとエキストラ登録システム導入、よくも4ヶ月で作業を終えられたものだ。スタッフの徹夜の作業に感謝。もうすぐホームページがお目見えする。(どしゃぶり涙ぁ〜)残念ながら間に合わず、近日公開のページも多少あるが、近いうちに公開を予定している。乞うご期待。更なる支援をおねっげーします。